直木賞作家で、東京都知事や参院議員を務めた青島幸男(あおしま・ゆきお)さんが20日午前9時半、東京都江東区内の病院で死去した。死因は血液がんの一種である骨髄異形成症候群。74歳だった。通夜は26日午後6時、葬儀は27日正午から港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は長男利幸さん。

 1932年、東京・日本橋の仕出し弁当屋の次男に生まれた。早大大学院在学中に漫才の台本を書き始め、20歳代で放送作家としてデビュー。「シャボン玉ホリデー」を手がけるなど草創期のテレビ界で活躍した。67年からのテレビドラマ「意地悪ばあさん」では主演を務め、お茶の間の人気を集めた。大ヒットした「スーダラ節」の作詞を手がけ、初めての小説「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」では直木賞を受賞するなど、文化人として多彩な才能を発揮した。

 政界でも活躍した。35歳だった68年、参院の全国区に初めて立候補し、120万票を集めて初当選するなどタレント議員のパイオニア。故市川房枝参院議員の遺志をついで「二院クラブ」の代表を務め、「選挙に金をかけるから後で回収しようとして政治腐敗が起きる」との考えから、以後は街頭演説など選挙運動らしいことをしないスタイルを確立した。

 参院5期目の95年には東京都知事選に立候補。自民、社会、公明など主要政党が相乗りした官僚出身候補に約50万票差をつけて圧勝した。

 都知事就任後、公約通り世界都市博覧会は中止したが、その後は都官僚と協調路線を取ることも多くなり、選挙時に支持した市民団体からは「ミスター公約違反」と批判を浴び、1期4年で知事を退いた。

 01、04年の参院選にも立候補したが落選し、04年に政界からの引退を表明した。




 放送作家、俳優、小説家、国会議員とマルチな活動で知られた前東京都知事の青島幸男(あおしま・ゆきお)さんが、20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で急死した。74歳。東京都出身。先月1日に自宅で転倒し、入院して病気が判明。19日夜までは元気だったが、この日朝、容体が急変した。「ビールでも飲みたいね」が、家族に残した最後の言葉。妻美千代さん(69)は「死に方も含めて、最後まで青島幸男らしかった」と、さばさばした表情だった。

 家族にとっても、突然の別れだった。この日夕方、東京都江東区の自宅マンションで会見した美千代さんと長女美幸さん(47)によると、都内の病院に入院していた青島さんはこの日朝、危篤状態に陥った。午前8時50分に病院から連絡を受け家族が駆け付けると、酸素マスクを付けたまま意識はなく、間もなく息を引き取った。美千代さんと美幸さん、長男利幸さんと妻、2人の孫が最期をみとった。

 青島さんは秋ごろ体調を崩し、先月1日、自宅で転倒し、病院で頭部を8針縫った。その際「立ちくらみがする」と訴え、検査の結果「血液の状態がおかしい」と言われ、入院。骨髄異形成症候群と診断された。脊髄(せきずい)に穴を開ける治療法も勧められたが、家族は「もう十分に生きた。延命だけのために苦しめたくない」と拒否。病名も、最後まで青島さんには伝えられなかった。

 入院中は血小板の輸血など治療を続けたが、青島さんは、毎日見舞いに訪れる家族を「よく来たねえ」と笑顔で迎え、病室ではテレビで相撲を見たり食事のおかゆも食べていたという。

 亡くなる前日の19日夜も、穏やかな表情で、美千代さんを「ママ、ママ、ママ」と、甘えたような口調で迎えた。「ビールでも飲みたいねえ。でもここは病院だからなあ」と、笑わせた。家族が「ビールは明日持ってくるから」と言ってなだめ、青島さんは午後8時に就寝した。これが、家族との最後の会話になった。遺言もなかったという。

 利幸さんは「本人も、こんなに急に亡くなるとは思っていなかったのではないか。まだ若かったし、もうひと花咲かせられると思っていたので、残念です」。入院したまま、自宅に帰ることはなかった。

 美千代さんは「何事にも意欲的で真剣に取り組み、家族を大切にしてくれた」と感謝の言葉を述べた。「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」で直木賞を受賞した時の、うれしそうな顔が忘れられないという。

 父と一緒に選挙に出た美幸さんも「死に方も含めて青島幸男だった。いい顔をしていたし、いい死に方だった。満足し合えた別れでした」。報道陣に「ビールをお供えするのですか?」と聞かれると「本当は病院でこっそり、飲んでいたんです」と、いとおしそうに笑った。



 放送作家としてテレビ黄金期を創出し、参院議員、東京都知事も務めた青島幸男(あおしま・ゆきお)氏が20日午前9時半、骨髄異形成症候群のため都内の病院で死去した。74歳だった。東京都出身。自宅は東京都江東区。葬儀・告別式は27日正午から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長男、利幸(としゆき)氏。マルチな才能を発揮し、多方面で活躍する一方、流行語になった「青島だァ~」に代表される歯に衣を着せぬ言動で物議を醸すこともあった。都知事時代は公約だった都市博中止以外、指導力を発揮することはなかった。



 青島氏は昭和7年、東京・日本橋の仕出し弁当店に生まれ、早稲田大学大学院商学研究科を中退。銀座でバーを経営していた際に書いた漫才台本がNHKで採用されたのをきっかけに、27歳で放送作家デビュー。脚本・構成を手がけた番組「シャボン玉ホリデー」に自ら登場した際に放った「青島だァ!」のギャグで一躍有名になった。

 また、ハナ肇とクレージーキャッツや坂本九の楽曲に詞を提供し、「スーダラ節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」などの反体制ソングや、坂本九の「明日があるさ」などのヒットを生んだ。

 ドラマ「意地悪ばあさん」では毒舌の主人公を怪演。制作・監督した映画「鐘」がカンヌ映画祭批評家週間で入選、小説「人間万事塞翁が丙午」で直木賞を受賞するなど、多彩な才能を発揮した。

 昭和43年、わずか35歳で参院選の全国区から立候補し、120万票を集めて2位で初当選。故市川房枝氏に師事、「二院クラブ」で金権政治を批判し続け、公報、自ら提案した政見放送以外は選挙運動をしなかったが連続4回当選した。

 佐藤栄作首相(当時)を「財界の男メカケ」と呼んで懲罰問題に発展したことも。自民党による消費税の強行採決に抗議し平成元年に議員辞職。4年、参院比例区で5選を果たし、佐川急便献金事件で金丸信・元自民党副総裁の議員辞職を求め、ハンガーストライキをした。

 7年、臨海副都心で開催が予定されていた世界都市博覧会を中止するとの公約を掲げ、議員辞職して都知事選に出馬。無党派層の圧倒的支持を得て当選し、公約通り都市博を中止したが、それ以外に目立った成果は挙げることもなく1期で引退した。

 11年にタレント活動を再開した後も、13年、16年の参院選に出馬したが、国政復帰はならなかった。


元祖マルチタレント。「意地悪ばあさん」で主演し、主題歌も歌った昭和43年ごろ。

 
青島幸男さん急逝の一報は、芸能界、歌謡界、政界に大きな衝撃を与えた。生前、親しかった関係者は口々に早過ぎる死を悼んだ。

 タレントのイッセー尾形氏(54)は、「突然の訃報にただ驚くばかりです。私にとって初めてのTVドラマ『意地悪ばあさん』(フジテレビ系)でご一緒させて頂きました。誰よりも早くロケ先の現場にいらして『ばあさん』に扮装された青島さんが前掛けに両手を入れて、ニコニコと笑顔を見せて下さいました。ずっと目をかけて下さったのに、何もご恩返しできないままなので、申し訳ない思いです。言葉の見つからない悲しみです」とコメントを出した。


タレント議員のパイオニアとして昭和43年、参院に初登院。

 青島さんが放送作家時代に親交があったというタレントの小野ヤスシ氏(66)は、「私がドンキーカルテットをやる前に、『新しいコミックバンドをやらないか』と誘われたこともあった。偶然お会いすると冗談を言っていたのをよく覚えている。それにしても、亡くなるには若すぎる…。政治の世界に入ってストレスも相当だったのだろう。もっといろんな面白い話が聞きたかった」と悲しんだ。

 作詞家のたかたかし氏(72)は「青島さんと出会ったのは昭和39年ぐらい。当時、私は職業を転々とし、食うに食えない状況で東京の地べたをはいずり回っていた。何かの機会で放送作家だった青島さんが『それだったらうちに来い』とおっしゃってくださって、自宅に押しかけた。今考えれば人生の大きな転機、チャンスを与えてくれた人。おかげさまで独り立ちができ、本当にありがとうございましたと言いたい」と話した。


一大「無党派」ブームを巻き起こし都知事選に当選したが、「スーダラ都政」の批判を浴び平成10年に1期で退任。
 
また、かつて二院クラブに所属した民主党の佐藤道夫参院議員(74)は「私が検察官を辞めて『さて、どうすべきか』と考えていたとき、政界に誘ってくれたのが青島氏だった」という。「『わが同志』という関係です。一般の人には『不正と闘う』『お金をかけない政治家』といったイメージがあるかもしれないが、本当の青島氏はサラッとしていて、信念を持って何かと闘うというより、『自分の進むべき道を行く』という人だった。最後にあったのは5、6年前か。自分の足跡を政治に残した人だった。惜しい人を亡くした」と語っった。

 青島さんの後に東京都知事となった石原慎太郎氏(74)は「驚いている。私と同じ昭和7年生まれであり、70歳台半ばと言えば、人生、まだまだこれからという時だ。ご本人もやり残したことがあったのではないかと思う。心からご冥福をお祈りする」とコメントを出した。
 
元参院議員の八代英太氏(69)は、「突然の話に唖然としました。私はテレビのワイドショーの草創期にご指導いただいた。参議院議員になったばかりの青島先生の司会で、昭和43年に始まった『お昼のワイドショー』に(中山)千夏ちゃんと一緒に出演して以来、政治の大切さなど色々と教えてもらったお師匠さんのような人でした」と早すぎる死を悼んだ。


★骨髄異形成症候群とは

 同病気に関連した著書がある京都市の武田総合病院、吉田弥太郎医師は、「白血病を非常に高い確率で引き起こす“前白血病”ともいわれる恐ろしい病気。血球が激減し、貧血や感染症、さらに合併症を引き起こす」と解説。青島さんは過去に悪性リンパ腫だった経緯があるが、これが大きな発病原因ではないかとみる。

 「この病気には、原因不明で発症する“原発性”と過去に抗がん剤を投与したことが原因で発症する“治療誘発性”の二つがある。青島さんの場合は後者と考えられる」

 近年、薬の開発も進んでいるが、完治は極めて難しいといい、「骨髄の血球の減り具合や染色体の異常により死亡リスクを判断するが、リスクが低ければ、発症から10年以内、リスクが高い場合は1、2年内で死に至る」と話している。 




 タレントで元東京都知事・青島幸男さんが20日午前、亡くなった。多彩な活躍を見せた青島さんの死去に、各界から惜しむ声が聞かれた。

 青島さんは20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため、入院先の病院で亡くなった。74歳だった。青島さんは先月、自宅で転んで頭を切り病院で検査をした際、病気が判明したという。その後は入院して治療にあたっていたが、20日朝になって容体が急変した。

 青島さんは59年に放送作家としてデビュー、日本テレビの「シャボン玉ホリデー」などで活躍した。その後はテレビドラマの「意地悪ばあさん」で主役を務めるなど様々な分野で活躍した。

 68年に参院選で初当選、95年には東京都知事になった。多彩な活躍を見せた青島さんの突然の訃報(ふほう)に、各界からは惜しむ声が聞かれた。

 塩崎官房長官「色々な新しい風を国政にも都政にも吹き込んだ実績は、高く評価しなくてはいけないのではないか。心からご冥福をお祈りしたい」

 都知事選で青島さんの後継として立候補した自民党・鳩山邦夫議員「あとひと花ふた花咲かせていただきたかった」「(Q.選挙戦のエピソードは?)キスされた。宣伝カーの上で。びっくりした」

 社民党・福島みずほ党首「『意地悪ばあさん』のロケを見たことがあるし、知事になってからあるテレビで青島知事にインタビューしたことがある。東京を人々の町にするために何をしたらいいか、話したことを覚えている。心からお悔やみ申し上げます」

 国民新党・亀井静香代表代行「運輸相の時かなあ、俺の部屋に初対面で飛び込んできてさ、『実は私、公約したことを猛反対受けていて、公約したことをやるべきかやるべきじゃないかということを悩んでいるんです』って。『あんた、公約したことはやりなさいよ』と言って帰した覚えがある」

 当時の都知事選で対抗候補を擁立した民主党・小沢一郎代表「知事と参議院議員もやったかな。選挙戦の間に外国に行ったかな。他人のことをあれこれ言わないが、私自身の生き様とはあまりに違うので論評はありません」

 浅香光代さん「まさかと思いましたよ。あんまり若いじゃないですか。あの先生、しゃんしゃんしてますからね。間違いならいいなと思ってね」

 東京・石原都知事(コメントより)「私と同じ昭和7年生まれであり、人生まだまだこれからという時だ。ご本人もやり残したことがあったと思う」



 放送作家、俳優、小説家、国会議員とテレビ時代を代表した「マルチ人間」で、前東京都知事の青島幸男氏が20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。74歳。東京都出身。自宅は東京都江東区。葬儀・告別式は27日正午から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長男利幸氏。  1955(昭和30)年、早大商学部卒。同大学院中退。在学中に漫才の台本を書いたのがきっかけで芸能界とかかわり、日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」などでコント作家として活躍。  俳優としてはフジテレビ系の「意地悪ばあさん」が代表作。81年には祖母をモデルにした「人間万事塞翁が丙午(ひのえうま)」で第85回直木賞を受賞。68年、参院全国区で初当選し5期24年間、参院議員を務めた。  95年の東京都知事選に無所属で立候補し、既成政党の候補らを抑えて当選。99年に退任後、タレント活動を再開していた。



 テレビなどでマルチタレントぶりを示した直木賞作家で、参院議員や東京都知事も務めた青島幸男(あおしま・ゆきお)氏が20日午前9時半、骨髄異形成症候群のため死去した。74歳だった。葬儀・告別式は27日正午、東京都港区の青山葬儀所で営まれる予定。

 仕出し弁当店の二男として、東京・日本橋に生まれ、早大商学部卒業後、同大大学院へ進学したが、肋膜炎を起こし、療養生活中に書いて送った漫才の台本が採用されてラジオ・テレビの世界へ。放送作家のかたわら、坂本九の「明日があるさ」や、高度経済成長を風刺した「スーダラ節」などを作詞した。

 テレビ初期の人気番組「シャボン玉ホリデー」では自らもギャグマンとして出演。「意地悪ばあさん」では主役を演じて人気者となった。昭和41年には映画「鐘」で脚本・監督・主演をこなし、カンヌ映画祭批評家週間に出品、話題となった。

 43年、参議院選に立候補し、初当選。その後も「カネのかからない選挙」を掲げ、政見放送と公報以外、街頭では選挙運動をしない独自のやり方で連続4選を果たした。

 その間、56年には参院議員の傍ら生家の人々をモデルに描いた小説「人間万事塞翁が丙午」で直木賞を受賞した。

 平成7年、参院議員を辞職して東京都知事選に立候補、170万票を集めて当選。公約を守り、世界都市博覧会を中止して話題を呼んだ。9年に施行したペットボトルをスーパーやコンビニで回収する「東京ルール」は、今日のリサイクル法の先駆けとなった。

 都知事を退いたあと13、16年と参院選に立候補したが、落選した。




 放送作家、タレントとして高度成長期のお茶の間の人気を集める一方、95年の東京都知事選で無党派旋風を巻き起こすなど政治家としても活躍した前同知事、青島幸男(あおしま・ゆきお)さんが20日午前、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で亡くなった。74歳だった。葬儀は未定。自宅は非公表。喪主は長男利幸(としゆき)さん。
 1932年、東京・日本橋の仕出し弁当店の二男として生まれた。早稲田大学卒業後、テレビのコント番組「おとなの漫画」で放送作家としてデビュー。歌謡バラエティー「シャボン玉ホリデー」で売れっ子に。植木等の「スーダラ節」の作詞などを手がける一方、67年には、テレビドラマ「意地悪ばあさん」に主演し、タレントとしても一世を風靡(ふうび)した。81年に母親をモデルにした「人間万事塞翁が丙午」で直木賞を受賞した。
 芸能・文化面での活躍の一方、庶民の目線による政治の実現を標榜。68年の参院選全国区で2位当選(以後5回当選)し、政界入りした。この時のトップ当選は現都知事の石原慎太郎氏だった。
 71年の参院予算委員会で、当時の佐藤栄作首相を「財界の男妾」と呼んで批判し、92年には、5億円献金受領問題で金丸信自民党副総裁(当時)の議員辞職を求めてハンストをするなど、意表を突く手法で時の権力への対決姿勢を貫いた。
 95年の都知事では「反既成政党」を掲げ、政党相乗りの石原信雄・元官房副長官らを破って初当選。大阪府知事に当選した横山ノック氏と共に無党派層の時代を演出した。知事就任後は、開催が決まっていた世界都市博覧会の中止を実現させたものの、東京協和・安全の旧二信組の破たん処理への対応や自衛隊違憲発言、都の食糧費公開への消極的な態度などで批判を受けた。
 1期限りで知事を引退。04年の参院選に出馬したが、復帰はならなかった。【清水忠彦】



 「努力しても無理矢理にでも軽く生きなくちゃいけない」。20日死去した青島幸男さんは、遺作になった新著をそう結んだ。お茶の間をにぎわせ、東京都政も担った74年の生涯。ツッコミを入れられる側に回った議会答弁より、はまり役の「意地悪ばあさん」で人をおちょくる姿が似合う人だった。

 亡くなる前日の19日夜。青島さんは入院先の病院で長女の美幸さんと楽しく話した後、「ビールでも飲もうか」と言った。「明日買って来るね」と答えると、いつになく優しい顔でうなずき、そのまま眠りについた。翌朝、容体が急変した。

 都知事のころは「とても苦悩していた」と、美幸さんは振り返る。

 「戦う青島で来たのに『社長』になり、守るものができた。決断するときも、一人で寝ずに考えていた。背中に手を合わせるような思いでした」

 そうした内面の重圧を、都知事時代、あまり表に出さなかった。

 都政策報道室計画部長だった青山●(やすし)・明治大大学院教授(63)は、あるとき知事室にレクチャーに行ったら青島さんが自分で植木に水をやっていたのを、思い出す。

 「そんなことしていないで仕事してください」

 そういう会話が許される、「長屋のご隠居のような人」だったという。

 目玉の公約は「都市博の中止」くらい。当選後に、都庁職員たちが急いで長期計画を作った。「羽田空港国際化」「都心の活性化」。都政の大転換となる内容を入れたが、青島さんは一切異論を唱えなかったという。

 石原慎太郎都知事(74)は青島さんと同い年。68年の参院全国区で石原知事が1位、青島さんが2位で初当選した。

 「95年の都知事選で僕は青島君に一票入れたんだ。もうちょっと何か奇想天外なことをしてくれると思ったんだがなあ」

 萩本欽一さんはコント55号時代、知り合ったばかりの青島さんに自宅に招かれ、朝まで語り明かしたのが忘れられない。

 「何十億円の家を建てても、歴史に名前は残らない。教科書に残るようなことをやろうや」

 萩本さんが売れ始め、外車や高い時計を買ったころだった。「コツンとやられた気がしました」

 今月出版した自伝「ちょっとまった! 青島だア」に青島さんは書いている。「人間社会もイワシの大群と同じさ。(中略)オレはたった一匹でも、違う方向へ泳ぐイワシでありたい」

●は「にんべん」に「八」の下に「月」




 放送作家、タレント、作詞家、俳優、司会者、直木賞作家……。青島幸男さんはその才覚を、まず草創期のテレビ界で開花させ、活動の場を政治へと広げていった。

意地悪ばあさんを演じた青島幸男さん

 早稲田大の卒業間際に結核にかかり、就職を断念。療養中に漫才台本を書き始め、NHKのコンクールで採用されたのを機に放送作家として活動を始めた。「おとなの漫画」(フジテレビ)や「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)などで構成やコントシナリオを手がけた。テレビに、時代を軽やかにおちょくる感覚をもたらした。

 作詞家としても才能を発揮し、60年代にハナ肇とクレージーキャッツが演奏した「ドント節」「スーダラ節」「ハイそれまでよ」、坂本九が歌った「明日があるさ」など、ヒット曲を数多く生み出した。「ドント節」の歌詞では、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」とうたい、「無責任時代」が社会現象化。高度経済成長時代にあくせく働くサラリーマンの猪突猛進(ちょとつもうしん)ぶりを、斜に構えて、笑いに変えてみせた。

 中山千夏、八代英太両氏と出演した「お昼のワイドショー」(日本テレビ)では司会者に。また、67年からドラマ「意地悪ばあさん」(日本テレビ、フジテレビ)で、主役のコミカルなおばあさんを女装で演じ、人気を博した。66年には映画「鐘」で主演・制作・脚本・監督を担当し、カンヌ映画祭の国際批評家週間に入選した。

 権威や多数派にこびず、独自のスタイルを貫き通す姿勢は政治にも表れた。68年に参院全国区で初当選すると、「『意地悪ばあさん』的精神で参議院の姿勢を正す」と宣言。その後は選挙運動への出費を抑えるため、公報や政見放送で主張を伝えるだけ。選挙期間中は自宅などにこもった。

 一方で発言は過激で、時の総理が財界から多額の献金を受けていることをとらえて「男めかけ」と言ってみたり、防衛費の拡大に歯止めをかけられない閣僚に向かって「全員腰抜けだ。アホですよ」と言い放ってみたり。

 95年の東京都知事選は、最有力だった各党相乗りの官僚出身候補を相手に、「国民をカヤの外に置き、政治は既存政党が行うものだという傲慢(ごうまん)な考えを捨てない限り政治不信は増大する」と舌鋒(ぜっぽう)をゆるめず、ほとんど選挙運動らしいことをしなかった。政見放送やポスターで政策を訴え大量得票した。就任早々、臨海部での博覧会中止という公約を実現し、「損得ではない。青島は約束を守れる男か、守れない男か、信義の問題だ」と語り、都民を喝采させた。

 でも、威勢がよかったのはそこまで。巨大な官僚組織、オール野党の議会、山積する課題を前に、青島色はかすんだ。「官僚の言いなり」「公約違反の無責任男」と厳しい批判を浴び、一時は意欲を見せていた2期目への立候補を断念した。
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